一冊の本から、問いをひらく。
心の不調に、名前がつくまで
昔の「メランコリー」は、
今のうつ病だったのでしょうか
The Anatomy of Melancholy

Wellcome Library, London / CC BY 4.0・上部をトリミング
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「うつ病」という言葉を、私たちはさまざまな場所で見聞きします。
けれど、言葉を知っていることと、その苦しさを知っていることは、少し違うのかもしれません。まして、自分や身近な人の不調を、どんな言葉で伝えればよいのかとなると、迷うこともあるのではないでしょうか。
今、うつ病と呼ばれている状態は、昔から同じ名前で理解されていたのでしょうか。古い本に書かれた「憂うつ」は、今のうつ病と同じものだったのでしょうか。
この連載では、不調に与えられてきた名前と、その人を支える社会のあり方を、分けて考えていきます。最初は、17世紀の英国で生まれた一冊を開いてみます。
「メランコリー」という言葉の中に
1621年、ロバート・バートンの『The Anatomy of Melancholy』が刊行されました。「メランコリーの解剖」とも訳せる題名の本です。ここでいう「解剖」は、対象を細かく分け、調べていくことでもあります。1
この本を読むと、メランコリーという言葉が、今の一つの病名にそのまま収まるものではなかったことが見えてきます。
バートンはまず、悲しみや心配などをきっかけに訪れては去っていく状態と、長く続く病としての状態を分けています。そして、前者の意味でのメランコリーは、誰もが経験しうるものとして述べています。2
一時的な落ち込みと、続いていく不調を区別しようとしていた。そのことには、今の私たちにも通じる問いを感じるかもしれません。
ただ、ここで「昔の人も、うつ病をわかっていた」と読み進める前に、もう少し立ち止まってみたいのです。何を病気と考え、どのように説明していたのか。その土台まで同じとは限らないからです。
心の話に、身体の説明が登場する
バートンの本には、血液など四つの「体液」によって身体を説明する考え方が登場します。メランコリーという名前も、その一つである「黒胆汁」と結びつけて説明されています。
これは、当時用いられていた身体の理解です。現代の医学で、黒胆汁をうつ病の原因と考えているわけではありません。3
一方で、この本には、身体についての説明だけでなく、信仰や生き方にかかわる言葉も現れます。苦しみを記述する文章のそばに、忍耐や信仰を求める文章が置かれているのです。2
その重なりを、ただ「昔は迷信だった」と片づけると、何を知ろうとしていたのかが見えにくくなります。反対に、「昔の方が心と身体を丸ごと見ていた」と、よい面だけを取り出すのも慎重でありたいところです。
苦しみへの関心と、苦しむ人への要求が、一つの文章の中に並んでいる。その両方を読む必要があるのかもしれません。
もちろん、この一冊は、当時のすべての人の考えを代表するものではありません。ここで見ているのは、ある時代、ある場所で、不調を理解しようとした一つの試みです。
似た記述があっても、同じ病気とは限らない
現在、WHOはうつ病について、日常的な気分の変化とは異なり、気分の落ち込みや、楽しさ・関心の喪失が長く続き、生活にも影響する病気として説明しています。社会的な状況、心理的な要因、身体の働きが複雑に関係するとされています。4
こうした説明と、古い本の記述に、似た部分を見つけることはあるでしょう。
それでも、似ていることだけを理由に、昔のメランコリーを現代のうつ病と同じものとして読むことはできません。苦しさを表す言葉だけでなく、何を一つの病気に含め、何と区別するかという枠組みも確かめる必要があります。
古い文章を、今の病名に翻訳する。わかりやすくなるようで、その過程で失われるものもありそうです。
書き残された言葉から、その人がどのような苦しさを経験したのかを想像することと、その人の診断を決めることも、分けておきたいと思います。
名前をつけることは、理解の終わりではなく
現在の診断には、不調を共通の言葉で捉え、適切な医療につなげる役割があります。WHOの診断に関する手引きも、正確な診断を、その人に合うケアへの第一歩と位置づけています。5
名前があることで、説明する手がかりが得られることはあるでしょう。ただ、名前を告げられたときの受け止め方まで、同じである必要はありません。安心と戸惑いが、一緒にあるかもしれません。
歴史をたどることは、診断を疑うためだけの作業ではないと思います。今使っている言葉が何を伝え、何を伝えきれないのかを考える手がかりにもなるのではないでしょうか。
バートンの本から、現代の診断へ、まっすぐ一本の道が続いているわけではありません。過去の説明を読み直すときにも、現在の病名を使うときにも、その言葉だけで相手を理解したつもりになっていないか、確かめる余地がありそうです。
名前を知ったあとにも、聞けることは残っています。
何がつらいのか。日々のどこで困っているのか。どのような助けを望んでいるのか。
心の不調に名前をつけることと、その人の話を聞くこと。その二つを、どのようにつないでいけるでしょうか。
つらさが強いときは、読むだけで抱えなくて大丈夫です。電話やSNSなど、話しやすい方法から探せる厚生労働省の相談先もあります。
読んだ資料、確かめたこと
1621年初版の書誌
Wellcome Collection
ロバート・バートン『The Anatomy of Melancholy』。初版の刊行年・書名を確認。
一時的な状態と、続く病の区別
Robert Burton / Project Gutenberg
第1部・第1節・第1項・第5小節。忍耐や信仰への言及も、同じ小節で確認。
体液による身体の説明と、名前の由来
Robert Burton / Project Gutenberg
第1部・第1節・第2項・第2小節、および第3項・第1小節。当時の説明として参照。
うつ病についての現在の説明
WHO / 2026年9月11日更新
Depressive disorder (depression)。日常的な気分の変化との違い、生活への影響、複数の要因について。
診断と、適切なケアの関係
WHO / 2024年3月8日
ICD-11の精神・行動・神経発達の障害に関する臨床記述と診断要件。診断の役割について、公式の概要を参照。
画像:Wellcome Library, London / Wikimedia Commons(CC BY 4.0)。『The Anatomy of Melancholy』1621年初版の扉ページ。書名のある上部をトリミング。
史料について:バートンの刊行年は1621年初版の書誌で確認し、本文はProject Gutenberg公開の電子版を参照しました。同電子版は19世紀刊本をもとに、1638年版の画像との照合などを行ったもので、1621年初版の翻刻ではありません。本文中の史料説明は要約です。
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