誰のものでもない身体に、印を刻む|刺青

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身体を書き換える #1 ARTICLE

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誰のものでもない身体に、印を刻む

身体は、生まれたときから自分のものだったはずです。

それなのに、若いころ、そこへ何かを刻みたくなる人がいます。皮膚の下に色を入れ、簡単には消えない印を残す。好きな絵を身につけたいというだけでは説明しきれない、切実さを伴うこともあります。

誰のものでもない。この身体は、自分のものだ。

刺青は、そのことを身体そのものへ署名する行為なのでしょうか。

けれど、刺青の長い歴史をたどると、印はいつも本人の自由な選択によって刻まれてきたわけではありません。祈りであり、装飾であり、成人の証しであり、共同体への所属であり、ときには刑罰でもありました。

身体に刻まれた印は、「私は私のものである」と語ることもあれば、「あなたはここに属している」と告げることもあります。

その印は、いったい誰のものなのでしょう。

変わり続ける身体に、変わらないものを

身体ほど身近で、思いどおりにならないものはありません。

生まれつきの形、成長、傷、病気、老い。自分の身体でありながら、そのほとんどは自分の意思と無関係に起こります。鏡のなかの姿だけでなく、他人からどのように見られるかも、自分ひとりでは決められません。

だからこそ、せめて一か所だけでも、自分の意思で変えたいと思うことがあるのかもしれません。

変わり続ける身体に、自分で選んだ、変わらない印を置く。与えられた身体をそのまま受け取るのではなく、いったん自分の手に取り戻し、編集し直す。

ここでは、その感覚を「身体主権」と呼んでみたいと思います。これは心理学や医学上の診断名ではありません。自分の身体について、誰が決めるのかを考えるための言葉です。

人は、いつから身体に印を刻んできたのか

現在確認されている非常に古い例のひとつが、アルプスの氷河で発見された約5300年前の男性、通称アイスマン「エッツィ」です。遺体には61か所の線や十字形の印が残っています。ただし、それが装飾だったのか、治療的な目的をもっていたのか、複数の意味をもっていたのかは、まだ確定していません。近年の実験研究では、切開して顔料を擦り込むより、尖った道具で皮膚を繰り返し突く方法が使われた可能性が示されています。

古い印が発見されると、私たちはつい、そこに現代と同じ「自己表現」を読み込みたくなります。しかし、身体に残る線だけから、その人の意図まで知ることはできません。

太平洋の島々には、刺青が個人の趣味という枠を越え、系譜、責任、成熟、共同体への奉仕と結びついてきた文化があります。サモアのタタウでは、施術の技術だけでなく、彫師の系譜、儀礼、家族や共同体との関係も重要です。そこにあるのは「好きな図柄を選ぶ」という消費的な自由とは異なる、身体を通して文化を引き受ける行為です。

それは自分の身体に刻む印でありながら、自分ひとりのものではありません。

糸・貝殻・顔料・木製のスタンプの静物

日本列島には、ひとつではない刺青の歴史がある

日本の刺青史は、一直線には語れません。

縄文時代の土偶に見られる顔や身体の線を、刺青の表現とみる説があります。しかし、それが刺青なのか、彩色や化粧、傷、衣服などを表しているのかは断定できません。後世の記録に身体の文様や入墨の記述があることと、縄文から現代まで同じ文化が連続していることも、別の問題です。

そもそも「刺青」「入墨」「彫物」「タトゥー」という言葉は、完全な同義語ではありません。どの言葉を選ぶかによって、刑罰、職人文化、美術、ファッションといった異なる像が立ち上がります。「彫る」と呼びながら、実際には針で皮膚を突く。その言葉のずれ自体が、日本で刺青がどのように見られてきたかを映しています。

和彫りの文様

さらに、北海道のアイヌ女性に受け継がれたシヌイェと、琉球弧の女性たちの手に施されたハジチは、江戸の町人文化から発達した彫物の前史として一括りにできるものではありません。それぞれが固有の意味と歴史をもつ文化です。

シヌイェは、口の周りに施す線を中心とした文身で、一人前の女性であることの表徴であり、美しさの基準であると同時に、死後の世界への備えという信仰とも結びついていました。1871年、開拓使によってシヌイェは禁止されます。この禁止は、現在に至るまで明確に撤廃されたわけではないとされています。

ハジチは、地域によって文様も呼び名も異なり、成人や結婚、来世、女性の美しさなどと結びついていました。幼少期から少しずつ施し、結婚するころに完成させたという記録もあります。それは女性たちにとって憧れの印であり、ごく身近な慣習でもありました。

ところが近代化の過程で、同じ印が「改めるべき風俗」と見なされます。沖縄では1899年に禁止規定が施行され、その後、施術した人や施術者が多数検挙されました。かつて美しさや成熟を示した手を、手袋で隠し、薬品で焼いて消そうとした女性の証言も残されています。

身体の印そのものが変わらなくても、それを見る社会の意味づけは反転します。誇りだったものが、恥とされる。しかも、その変化を決めたのは、印を身につけていた本人たちではありませんでした。

刑罰としての入墨、誇りとしての彫物

江戸時代には、身体に印を刻む二つの流れが、同じ社会のなかに存在していました。

一方には刑罰としての入墨があります。八代将軍徳川吉宗のもと、享保5年(1720年)ごろから、町人に対する刑罰として制度化されました。顔や腕など、隠しにくい場所に印をつけ、罪を犯した者であることを身体に残す。それは本人の署名ではなく、権力が身体へ書き込む記録でした。武士は対象とされず、入墨は身分によっても異なる刑でした。刑期を終えても消えない印は、社会へ戻ったあとまで人を追い続けます。

もう一方には、町人や職人のあいだに広がった装飾的な彫物があります。火消し、鳶、飛脚など、肌を見せて働く人々の身体に、大きな図柄が施されました。十九世紀には、歌川国芳が『水滸伝』の豪傑たちを描いた武者絵が人気を博し、龍や花、動物、物語上の人物が身体を覆う視覚世界にも影響を与えました。

同じ皮膚の印が、一方では烙印であり、もう一方では誇りになる。

ただし、刑罰の入墨を隠すために装飾的な彫物が生まれた、という単純な起源物語には慎重であるべきでしょう。二つは併存していましたが、その関係をひとつの物語だけで説明することはできません。

近代国家は、どの身体を「正しい」としたのか

明治期に入ると、1872年(明治5年)の太政官布告により、日本では刺青の施術が全国的に禁止されます。この禁止は1880年の刑法、1908年の警察犯処罰令へと引き継がれ、1948年に廃止されるまで続きました。近代国家として海外からどう見られるかという意識のなかで、刺青は公に見せたくない風俗とされていきます。

禁止されたあとも、刺青が消えたわけではありません。人目につかない場所へ移り、秘密性を帯びました。やがて反社会的勢力との結びつきが強く想像されるようになり、現在も温浴施設やプールなどで入場を制限されることがあります。

しかし2020年、最高裁判所は、彫師によるタトゥー施術について、医療や保健指導に属する行為ではなく、医師法上の「医行為」には当たらないと判断しました。その決定は、タトゥーを装飾的・象徴的要素や美術的意義をもつ社会的風俗として捉えています。一方で、皮膚へ針を入れる以上、保健衛生上の危険がなくなるわけではないとも述べています。

身体を変える自由と、身体を傷つけないための安全。その二つは、どちらか一方だけでは語れません。

ヨーロッパの街角にあるタトゥーショップの外観

刻んだあとの身体と暮らす

刺青を入れることは、その瞬間の選択で終わりません。印をもつ身体で、翌日からの暮らしを続けていくことでもあります。

日本では現在も、温浴施設、プール、ジムなどが刺青のある人の利用を制限していることがあります。仕事によっては見えないよう求められ、服装や働き方の選択に影響することもあるでしょう。家族や周囲との関係で、説明や交渉が必要になる人もいます。

刺青のある手

それらが妥当な扱いかどうかという議論と、現実に不利益が存在することは分けて考えなければなりません。すべての人が同じ不利益を受けるわけではありませんが、若い日に自分で選んだ印が、その後の自分の行動範囲を狭める可能性はあります。

身体そのものへの影響もあります。刺青は針で皮膚に色素を入れるため、感染、色素へのアレルギー反応、肉芽腫、ケロイドなどが起こる可能性があります。除去には複数回の治療と費用を要することが多く、瘢痕を残さず完全に消すことが難しい場合もあります。

一方、「刺青を入れると皮膚呼吸ができなくなる」という説明は正確ではありません。皮膚の表層は大気からも一部の酸素を受け取っていますが、人の呼吸を担うのは肺であり、刺青によって全身の酸素交換が妨げられるという意味での「皮膚呼吸」の問題は確認されていません。2020年に発表された小規模な比較研究でも、刺青のある皮膚とない皮膚のあいだに、運動時の局所的な発汗量、汗のナトリウム濃度、皮膚温の差は認められませんでした。少なくとも、皮膚が印によって「息をできなくなる」と考える必要はなさそうです。

MRIについても、「刺青があると受けられない」と一律に考えるのは正確ではありません。多くの場合、検査は可能です。ただし、一部の色素に含まれる成分が磁場や高周波の影響を受け、まれに刺青部分の腫れ、熱感、刺激、やけどが報告されています。検査部位に近い刺青やアートメイクが画像を乱すこともあります。MRIを受ける際には事前に申告し、検査中に熱さや違和感があればすぐに伝えることが大切です。必要なMRIを自己判断で避けることのほうが、大きな不利益になる場合があります。

こうした現実を書くことは、刺青を思いとどまらせるためではありません。

身体の主権とは、誰にも口を出させないことだけではなく、その選択によって将来の身体に何が起こり得るのかを知ったうえで決めることでもあるはずです。自由には、選んだあとの身体と暮らしていく時間が含まれています。

「自分で選んだ」は、どこまで自分のものか

現代の刺青は、個人の記憶、信条、喪失、愛情、装飾、所属、あるいは、ただその図柄が好きだという理由で選ばれます。理由はひとつではなく、必ずしも本人のなかで言葉になっているとも限りません。

若い時期に刺青を入れたい衝動を、反抗心や未熟さだけで説明するのは簡単です。しかし若い身体は、家族、学校、職場、恋人、広告、性別規範など、さまざまな視線にさらされています。「自分の身体なのだから、自分で決めたい」という感覚は、ときに切実です。

けれど、ここにも難しさがあります。

自分で選んだ図柄は、本当に自分だけから生まれたのでしょうか。美しいと感じる身体、格好いいと感じる意匠、隠すべき場所と見せるべき場所。その基準もまた、文化や時代、所属する集団の影響を受けています。

身体の主権とは、何の影響も受けずに決めることではないのでしょう。そんな選択は、おそらく存在しません。誰かの視線や歴史を身体に含んだまま、それでも最後に自分で引き受けること。そのことを、私たちは自己決定と呼んでいるのかもしれません。

身体は、逃げられない場所である

刺青を受ける人と彫師を4年間にわたって調べた研究に、身体を「逃れることのできない、私たちが生きる場所」と捉えたものがあります。そこでは刺青が、身体を別の、より暮らしやすい場所へつくり替える行為として考察されています。

これは、刺青をめぐる感覚をよく表しているように思います。

私たちは身体を持っているのではなく、身体のなかで暮らしています。気に入らなくても、傷ついても、年を重ねても、そこから完全に出ていくことはできません。だから人は、壁に色を塗り、家具を動かすように、身体へ手を加えたくなるのでしょうか。

刺青は、その身体を自分が暮らせる場所にするための印なのかもしれません。

消えることを、はじめから選ぶ印もある

すべての人が、変わらない印を選ぶわけではありません。

結婚式の祝いの場で施されたヘナ

ヘナ(メヘンディ)は、ヘンナという植物の葉を粉にした染料で、手や足に文様を描く技法です。その起源は5000年以上前にさかのぼり、古代エジプトから中東、南アジア、北アフリカへと広がってきました。インドでは繊細な線と唐草模様、中東では大ぶりな花模様、北アフリカでは幾何学的な文様というように、地域ごとに様式は異なりますが、結婚式や祝いの場で施されることが多い点は共通しています。赤みを帯びた染めの色は、数日から数週間のうちに自然と薄れていきます。

刺青が「変わらない印を、変わり続ける身体に置く」行為だとすれば、ヘナは「いずれ消える印を、いまの身体に重ねる」行為だといえるかもしれません。どちらも身体を装う意思であり、身体主権のひとつのかたちです。ただ、その意思が向かう先は、永続と儚さという、正反対の方向にあります。

変わらない印も、身体とともに老いていく

刺青は、消えにくいものです。けれど、ほんとうに変わらないわけではありません。

皮膚は伸び、傷つき、日に焼け、たるみます。色は褪せ、線は滲み、身体の輪郭とともに図柄も変わっていきます。若い自分が選んだ印を、年を重ねた身体が引き受けて暮らしていくことになります。

そこには、取り返しのつかなさだけではない時間があります。

花の刺青

変わらないものを刻んだはずなのに、その印もまた、自分と一緒に変わっていく。刺青は、身体を時間から守るものではなく、時間が身体を通り過ぎたことを、むしろ目に見える形で残すものなのかもしれません。

肉体は、魂が宿る器。注意して取り扱いなさい。

魂という言葉を使うかどうかは別としても、身体は自由にできる所有物であるだけでなく、自分が一生暮らす場所でもあります。身体の主権には、好きに変える自由と、その後の身体を引き受けることの両方が含まれているのでしょう。

刺青を入れたい人は、身体を変えたいのでしょうか。

それとも、誰のものでもないこの身体が、たしかに自分のものであると、確かめたいのでしょうか。


参考文献

お時間あれば、もう少し。

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