漫画の中で見かけた一皿が、ずっと頭の片隅に残っていることがある。
いつか食べてみたいと思ったまま、忘れかけていた味に、旅先でふいに出会った。
イスタンブールの海辺で、行列に並んで買った焼きたてのサバサンドの話。

ページの中の、あの味
漫画『平和の国の島崎へ』を読んでいたとき、心に残った場面があった。
市民まつりの模擬店で、用意していた食材が届かなくなり、島崎がその場にあったサバの缶詰でサバサンドを仕立てる。それが思いのほか評判を呼ぶ、というエピソードだ。
サバを、パンに挟む。
ごはんと焼き魚に慣れた舌からすると、少し意外な組み合わせかもしれない。けれど、ページの中の人たちが美味しそうに頬張る姿を見ていると、なぜだか無性に惹かれた。
いったい、どんな味なのだろう。
いつか食べてみたい。その思いは予定になるわけでもなく、頭の片隅にそっと置かれたままだった。
ガラタ橋の煙
それを思い出したのは、トルコを旅していたときのことだ。

イスタンブールの海沿いを歩いていると、ガラタ橋のたもとのあたりから、魚を焼く香ばしい煙が流れてきた。匂いにつられて足を向けると、海沿いに並ぶお店やレストランで、焼きたての魚をパンに挟んでいる。人気の店の前には、長い行列ができていた。
「あ、これだ」
ページ越しに想像していたサバサンドと、目の前の光景が、静かにひとつに重なった。
トルコでは「バルック・エキメキ」と呼ばれている。バルックは魚、エキメキはパン。名前もそのまま、魚のパン。この街で長く親しまれてきた、気取らない軽食だ。
作中の島崎は缶詰で即席に仕立てていたけれど、ここでは目の前で焼いたサバをそのまま挟む。
物語の中の一皿の、原風景のような場所に、自分が立っている気がした。

塩とレモンだけで
もちろん、その列に並んだ。
少しずつ前へ進みながら、焼き台から上がる煙を眺めて待つ。
黄色い看板には、トルコ語で「薪の火で焼いた、骨なしのバルック・エキメキ」。
順番が来て、焼きたてをひとつ受け取る。レモンを搾って、塩を軽く振る。
素朴でしっかりしたパンに、香ばしく焼けたサバ。生の玉ねぎと、レタス。特別なソースはなく、味つけは塩とレモンだけ。
それが、驚くほどよく合う。
脂ののったサバの旨みをパンが受けとめ、レモンの酸味と玉ねぎの辛みが、後味をすっと軽くしてくれる。
ひと口ごとに、この味がこの街で愛されてきた理由が、すとんと腑に落ちていく。
島崎のサバサンドが模擬店で評判になったのも、たぶん同じところにあるのだろう。



注文のとき、「サンドにするか、ドゥルムにするか」と聞かれた。決めきれず、両方頼んだ。
分厚いパンに、たっぷりの具。食べ比べてみると、正直なところ、その日はドゥルムの方が好みだった。
けれど、記憶に長く残ったのは、サバサンドの方だった。
どちらが美味しいかということより、探していた味に出会えたということが、たぶん自分にとって大事だったのだろう。
物語と旅が、つながるとき
物語の中で気になっていた味と、旅先での偶然の出会い。
どちらか片方だけなら、ここまで覚えていなかったかもしれない。
海からの風に吹かれながら食べた、その気取らない味は、
旅をしていたという実感を、いまも鮮やかに残してくれている。
あなたの頭の片隅にも、
いつか確かめてみたい味が、ひとつくらい置かれているでしょうか。
お時間あれば、もう少し。
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