2026年のサッカー・ワールドカップ決勝、アルゼンチン対スペイン。史上初めて設けられたハーフタイムショーで、ひとつの場面に目が釘付けになった。
青いブレザーのドゥダメルが、ニューヨーク・フィルとシモン・ボリバル交響楽団を指揮して「セブン・ネイション・アーミー」を鳴らし終える。オーケストラの余韻がまだ残るフィールドの中央に、ひとりジョングクが立つ。「Dynamite」のイントロが流れ出し、そこへメンバーが一人また一人と加わっていく。1分45秒という短い持ち時間の中で、7人がフィールドの中央にそろう。
大勢の観客、時間の制約、テレビ中継、直前まで響いていたオーケストラという、まったく毛色の違うステージからのバトンタッチ。これだけの条件が重なる場所で、導入からひとつも崩れずに舞台を立ち上げてしまう。その精度は、単に練習量で片付けられるものではないはずだ。世界的な人気の背景に、こういう仕事の質があることに、あらためて見とれてしまった。
ワールドカップ96年の歴史で、これは初めて設けられたハーフタイムショーだった。
Billboard、Hollywood Reporter ほかの報道より
この人たちは、なぜこれほど大きな舞台でも崩れないのだろう。新大久保で韓国料理を食べたり、コルギに通ったりはしていても、BTSにもK-POPにも縁がなかった立場から見ても、その問いは自然に浮かんだ。
ひとつの「好き」が、知らなかった文化を開く
ひとつのステージがきっかけで、K-POPだけでなく、韓国の食や美容、映画、街並み、言葉にまで興味が広がっていく。これは珍しいことではない。
好きな音楽から外国の文化を知る。作家が生まれ育った土地を訪ねる。映画の舞台になった街を歩く。ライブのために遠くまで足を運ぶ。作品を通して、それまで縁のなかった言語や歴史に関心を持つ。いわゆる「推し活」という言葉が当てはまる部分もあるが、この現象はアイドルを応援する行為だけに収まるものではない。ひとつの「好き」が、知らなかった世界への扉になる。それだけの、わりと単純な話だ。
この扉の開き方に、健康にいいとか悪いとかいう効能を持ち込む必要はない。ただ、ひとつの舞台が誰かの世界を広げることは、確かにある。
日本は、世界で戦うのが苦手なのか
BTSのような存在が、なぜ日本からは生まれにくいと言われるのか。「日本人はもともと世界で戦うのが苦手だから」という説明を、時々見かける。
けれど、スポーツの現場を見る限り、この説明はいささか雑ではないかと思う。
サッカー、野球、バレーボールが見せてきたもの
サッカー日本代表は、ワールドカップ出場を重ね、2002年、2010年、2018年、2022年の4大会でベスト16に進出している。野球日本代表は、WBCで複数回優勝し、2023年大会では史上最多となる3度目の世界一を果たした。バレーボール日本代表にいたっては、2024年のネーションズリーグで男女そろって準優勝、そろって銀メダル。示し合わせたわけでもないだろうに、きっちり足並みをそろえてくる。
WBC2023、侍ジャパンは史上最多となる3度目の世界一を果たした。
日本経済新聞
どの競技も、一朝一夕の結果ではない。海外の強豪から学び、育成の仕組みや戦術、指導法、体づくり、データの活用を長年かけて更新しながら、日本なりの戦い方をつくってきた。「日本人は本来優秀だから」という話ではなく、競技ごとの地道な積み重ねと、国際経験の蓄積の結果だろう。
日本に、世界と向き合う力がないわけではない。世界で勝つという目標がはっきりしている分野では、ちゃんと結果を出してきている。
それでも、カルチャーはスポーツではない
ここで一度立ち止まりたい。スポーツの成功をそのまま音楽やカルチャーに当てはめて、「だからJ-POPも世界仕様に変えるべきだ」と言うのは、少し話を急ぎすぎている。
スポーツには、共通のルールと、得点と、勝敗と、大会がある。「世界で勝つ」という目標も、比較の基準も、わりとはっきりしている。
一方でカルチャーには、これといった「世界水準」というものが存在しない。いま世界で流れている音や構成、言葉の選び方、見せ方に近づけることが、そのまま音楽の進歩を意味するわけではない。K-POPのやり方をJ-POPにそのまま移植すればいい、という単純な話でもない。スポーツとの比較から言えるのは、「日本には世界と向き合う能力がないわけではない」というところまでで、その先は競技の話と切り分けたほうがよさそうだ。
日本語のまま育った、もうひとつの生態系
日本には長らく大きな国内音楽市場があり、日本語による独自の歌詞表現、歌謡曲の系譜、アニメやゲームの音楽、ボーカロイド、ライブ文化などが、互いに影響を与えながら、豊かな生態系をつくってきた。海外に合わせる必要がなかったからこそ、日本語のまま、日本の暮らしの中でしか育たない音楽が、ここまで続いてきた。それ自体が、ちゃんと胸を張っていい積み重ねだと思う。
この状態を指して、「ガラパゴス」と呼ばれることがある。海外の音楽シーンとは違う方向に、独自に育ってきたという意味だ。だが、ガラパゴス諸島の生き物たちが劣っていたわけではないのと同じで、これは遅れでも劣等性でもない。そこでしか育たなかった、というだけの話だ。
「J-POPのガラパゴス化」をめぐる議論は、2010年代から音楽ジャーナリズムの中で繰り返し語られてきた。
日刊サイゾー、miyearnZZ Labo ほかの記事より
BTSやK-POPが、世界というひとつの大きな舞台に向けて磨き上げてきた精度があるように、J-POPには、日本という土壌でしか育たない濃さがある。どちらが優れているという話ではなく、育て方の違う二つの生態系が、たまたま同じ時代に並んでいる、というだけのことだ。
世界に合わせるのではなく、世界と出会う
だとすれば、必要なのは音楽そのものを世界仕様に作り変えることではないのかもしれない。むしろ、そのままの表現が国境の外へ届きやすくなるための、細い通路のようなものではないか。翻訳や字幕、海外での発信、配信や流通の整備、権利まわりの手続き、海外公演や現地との協働、作品の背景を伝える編集。文化を均一にならすのではなく、違ったまま出会える場所を増やしていく作業だ。このあたりは業界の構造に関わる話でもあり、まだ確かめきれていないことも多い。
世界的な舞台という、ものすごく大きな入口を通って、それまで縁のなかった国の音楽や食、映画、街、言葉に関心が向き始める。それこそが、文化が国境を越えて届くということの、案外いちばん普通の形なのかもしれない。
世界へ届くことと、世界に合わせることは違う。カルチャーに必要なのは、世界に勝つことよりも、自分たちの文法を手放さずに、世界と出会うことなのだ。
